|2024/02/05|
先日「ナンニモシナイ酒場」を開催しました。思っていたよりも多くの方に足を運んでいただき、ぼくとシャッチョはとてもうれしかったです。来てくださった皆さん、ほんとうにありがとうございました。またすぐに、とはいかないと思いますが、またやりますのでその時もぜひいらしてください。
せっかくなので「ナンニモシナイ」ということについて書いてみたいと思います。
きっかけは「おくりものはナンニモナイ」という絵本でした。ナンニモナイことがおくりものになるんだ、という新鮮な驚きがあり、ぼくたちはりんご畑で「ナンニモシナイ体験」を始めました。その後それは「放課後ナンニモシナイくらぶ」というかたちに派生し、主に大学生の人たちが集まってくれて、みんなでその時間を楽しみました。昨年「くらぶ」は場を設けることができなかったのですが、その在り方について思うところがあったのでお休みしていました。この1年でその思うところを「失われたナンニモシナイを求めて」というインタビュー企画を通してだいぶ深めることができたように思います。まだまだ縦にも横にも深く広くおどおど迷いながら進んでいくインタビューになりそうですが、それもそれでとてもたのしくやらせてもらっています。そして「ナンニモシナイ酒場」はその思うところが多少深まったところで出てきたものだったように、今考えると思います。
「ナンニモシナイ酒場」に目的という目的はありませんが、強いて言うなら、食べながら飲みながら何か設定されたものを辿るようなことはせず、その時その場に集まったみんなで「ナンニモシナイ」を味わおう、というところにあるのかなと思います。さらに僕個人の興味関心といったところで言うと、生まれや経歴、肩書き、過去現在未来、あるいは名前、すらも外してしまったところで、ひとはどう共に在ることができるんだろうか、みたいなことも、考えたりしています。
とにかくまぁ、小難しいことは適当に土淵川にでも放り投げて、鯉たちのエサになることを祈りましょう。帰りに「あぁ、なんかよくわからんけど、たのしかったなぁ」と来てくださった方がひっそり思ってくだされば、それで「酒場」の意味はあるのかなぁ、と思います。
ただやっぱり多少「得体の知れない」取り組みだとも思うので、先日来てくださった方に「ただ食べ物飲み物を持ってきたらお金を払わなくていいって言うんで、なんか勧誘されるのかと思いました!(笑)」言われた時、あぁなるほどたしかに!(笑)とひとり腑に落ちました。こちらにそういう意図はまったくないけど、そう思う方もいるよなぁ、と思い、次回から投げ銭制を導入することを検討しています。でも、そういう「得体の知れなさ」というのが、ある意味では「敷居」となっているところもあると思うので、今後もこそこそミステリアスに、「ナンニモシナイ酒場」はやっていきたいなぁと思います。
また「ナンニモシナイ」に関わる一連の取り組みについて、ぼくが、手が滑って落っことしちゃいそうになるかもしれないけど、いつまでも大事にもっておきたいなぁと思う心構えがあります。「おもてなし」をしない、ということです。心配性なのであれこれ気を配って勝手に体や口が動いたりするのですが、できるだけぎりぎりまで、ぐっと堪えるようにしています。どうしてなのかわかりませんが、でもそうしないと、みなさんとぼくとのあいだにある、たいせつななにかがくずれてしまいそうで、くずしてしまいそうで、それがぼくは、なによりもこわい、のだと思います。
こんなへんな中の人ですが、今後とも「ナンニモシナイ」をどうぞよろしくおねがいいたします。
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読んでくださりありがとうございました。
シャッチョとぼくともどもなかよくしてくれている、弘前を訪れる人たちにとって入り口になるような、でもここで暮らすぼくたちも大好きなところで働いている友だちが「こびない」ことを大切にしていると言っていたと、シャッチョが教えてくれました。
同じようなことを思っていたんだぁと思ってぼくは、とてもうれしくなりました、とさ。
RINGO BASE MAGAINE▶︎キリンの雪かき