私たちには「ナンニモシナイ」が必要だ

社会に生きていく以上、私たちはなんらかの役割を果たす必要があるとされている。だから「何かしたい」とか、「何かしなきゃ」と思って、自分の持っている時間や力を使うによい「何か」を私たちはいつも探している。

 

誰かのため、社会のためになるようなことをできてないなあと感じるとき、自分の存在の心もとなさに落ち込んでしまう。この「なんにもしてなさ」は足元がぐらつくような不安を呼ぶ。

 

その一方で、自らの意志で「ナンニモシナイ」を選びとるとき、なんとも言えない安心感に包まれる。

 

水平線を眺める。猫を真似して床にごろんと寝転がる。目的もなく歩き続ける。社会の役割や日々の文脈から離れて、ぽつんと、ただ、在る。

 

「ナンニモシナイ」ははたから見ると何も生み出さない、ひょっとすると自分のためにもならないようなものだけど、この「無」にこそ豊かさや安心、自由があるような気がする。

 

「なんにもしてなさ」と「ナンニモシナイ」は似ているようでちょっと違う。きっと、「ナンニモシナイ」をするのは誰かのためじゃなく、自分のためだ。自分自身がただそこに存在していることを認識する(あるいはそんなことすら考えなくてもいい)ことにどうにもほっとして、軽やかな心地になるのだろう。

 

複雑で効率的で素早すぎる社会の流れに揉まれ続ける私たちには、もうちょっと「ナンニモシナイ」が必要だ。温泉リトリートとか、そういうのもいいけど、そんなに非日常的で特別なものじゃなくてもよくて。もっと日常的で、ほんのひととき漂流するような……。

 

「ナンニモシナイ」と「何かしたい/する/しなきゃ」を行ったり来たり、身も心も揺れ動きながら、いつの日か、自分も誰かも穏やかにただ在る――ナンニモシナイ場所や時間をつくれたらいいなと思う。それが今の私が見つけた「何か」なのかもしれない 。

 

Writer:ワカナ

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