以前RINGO BASE MAGAZINEのPodcastにお邪魔した際に「わかりあえなさのなかにある希望のようなもの」の話をした。
「人と人はわかりあえる」という前提に立つと、叶わないときに悲しくなる。どれだけ言葉や気持ちのやり取りをしても、わからない(わかってもらえない)とがっかりしたり腹が立ったりする。それはどんなに親しい人との間にも起こりうるので、何度も悲しむくらいなら最初から期待しなきゃいいんじゃないか。でも、「期待しない」はなんだか寂しいし、どうしたって何らかの期待は生まれてしまうもので。だから、ここ数年は「わかりあえなさ」をどう捉え直し、どう前向きに取り組んでいくのかを考えている。
わたしとあなたは全く異なる人間で、経験によって築いてきた固有の前提や価値観を持って存在している。わたしはわたしでしかなく、あなたはあなたでしかない。わかりあえなさに向き合うことは、(当たり前だけど難解な)それを理解するためのプロセスなのだと思う。そしてそれはきっとわたしやあなたが大切にしている考えや気持ちに触れる営みなのかもしれない。
わたしたちのコミュニケーションがそれぞれの地平から見つめあって言葉を送りあうようなことだとしたら、そこに招き入れたり、誘われたり、やっぱりそれぞれの場所から眺めたり。全く違う方向を向いていることもある。必ずしもどっちかの方へ寄せていく必要はなくて、それぞれの場所に立ちながらともに存在することはできるはず。
今この瞬間にわたしが、あなたが、何を思い、どんな表情や声色で、何を話そうして何を言わないのかをよく観察する。わかりたい。安易にわかった気になりたくない。わかってほしい。誰にもわかられたくない。矛盾を抱えながら、わかろうと試み続ける。この試みは正直しんどいし、そもそも「わかる」ってなんなの?とも思う。けれど、今日も今日とて「わかりあえなさ」を恐れ、楽しんでしまうのだ。
Writer:ワカナ
RINGO BASE MAGAZINE▶︎日々のほとり