本記事は、RINGO BASEのInstagramにて2022年11月9日に投稿した「ナンニモシナイの小話10 」の再掲載したものです。

内容には加筆修正などありません。

以下、本文です。

この仕事をおこなうこと、そのこと自体が楽しいという、仕事の「内的な満足」(intrinsic satisfaction)は、このように(未来の目的とではなく)現在の他者との関係と編みあわされている。だから、「じぶんがだれであるかをじぶんに語って聞かせるストーリー」といっても、それはじぶん勝手な意味づけという意味ではない。ひとつの仕事のなかでひとつのことをなしとげたという感覚をあたえてくれるようなそういうストーリーは、じぶんはだれかということ、つまりは自己のアイデンティティとの関連であたえられるものである。そしてそれこそがふつう、「生きているという手応え」とか「生きがい」とよぶものなのである。

鷲田清一『だれのための仕事 労働vs余暇を超えて』より。

労働とナンニモシナイ。

考え方によって、その二つは対極にあります。

労働は、僕たちの体と頭を動かすことによって生まれる力、動力、労働力を、誰かに、あるいは何かに提供し、その対価としてお金を得る営みです。
目的があればそれに向かっていこうとする人間の習性に支えられています。
そこでは、生産性と効率性の追求のため、終わりのない改善が積み重ねられます。
労働は、「すること(doing)」の集積、です。

ナンニモシナイは、僕たちの心に関わる営みです。
労働のように、それを差し出すことで得られるわかりやすい対価はありません。
自由を夢見る人間の欲求に支えられています。
そこでは、生産性と効率性から遠く離れ、一貫性のない時間が流れています。
ナンニモシナイは、「あること(being)」の堆積、です。

労働とナンニモシナイ。

考え方によってその二つは対極にある、と僕は書きました。

でもどちらも、ひとに必要なことだと僕は思います。

どちらにも偏り過ぎることなく、どちらともほどほどに付き合うことができたらいいなと、僕は思っています。

はざまでゆらゆら揺れていたいんですよね。

じゃあ、どうしたらいいんだろう。

働くことをテーマに、個人的なメモみたいなものをしばらく「ナンニモシナイの小話」で書き継いでいきたいと思います。

お楽しみに。

Writer:Writer:RINGO BASE スタッフ あつし

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