本記事は、RINGO BASEのInstagramにて2022年12月26日に投稿した「ナンニモシナイの小話11 」の再掲載したものです。

内容には加筆修正などありません。

以下、本文です。

人間の生の直線的で不可逆的な時間の流れは、生物学的循環運動のリズムによって制約されているが、この循環運動の内部にひそんでいるのは、快と不快であり、働いて生計を立てることの労苦と、生きる糧を摂取吸収するさいの満足感である。快苦のこの両面は、密接に隣り合っているので、労苦をそっくり除外しようとすれば、生からその最も自然的な満足感を、不可避的に剥奪してしまうこととなる。こうした生物学的生命こそ人間本来の生の原動力である以上、人間の生が「労苦と労働」を完全に免れることができるのは、人間の生に固有な生き生きした生命力を放棄する用意があるときのみである。

 

ハンナ・アーレント『活動的生』(森一郎訳)より

いつ頃からなのかもう覚えていませんが、僕にとって働くことはしんどいことです。

ずいぶんマシにはなりましたが(ありがたいことに)、仕事の日の朝は気分に憂鬱さが混じります。目が覚めて少し時間が経つと、仕事についてあれこれ考えてしまってそれだけでぐったりなってしまう日もありました。

実際に職場に出て働き始めてしまえば、もちろん疲れはしますが、朝ぐるぐると考えていた心配事をよそに物事は粛々と進み、勤務時間が終わってしまえばなんてことなかった、という日の方が多いように思います。それでもやっぱり、次の日の朝になれば、程度の差はあれど憂鬱な気分が頭を漂っているわけですが。

働くことに喜びがないわけではありません。働いて働いて、ひとつの仕事に区切りがつけば達成感を感じますし、からあげを食べながらハイボールを飲み干して、いやあおれがんばったなあと思ったりします。

じゃあ、次もがんばるか、という気持ちになるかというと、必ずしもそうではないんですね。僕の中でその達成感は次に続いていかない。その場限りのもので、眠って目が覚めれば、それは跡形もなく自分の中から消えている。

いったいなにが起こってるんだろう。

時間ができたので考えてみました。

僕は、目的の扱いが下手くそです。目的を立てるところまではわりかしすっとできるのですが、立てた目的に向かって、さあどうやってそこに行こうかという計画を立てる段になると腕を組んで唸り始めてしまいます。計画を立てるのも下手くそなんですね。まあでも下手くそなりなんとか計画を立ててみます。そしてできあがった計画表を見てうっとりするわけです。よしよし、これはいつまでに、あれはいつまでにやれば、目的を達成できるな、よしよし。

さて、それでどうなるかというと。

たいていそこそこ苦労して作った計画表は、ほこりをうっすらためているか書類の山に埋もれているか、運が良ければ裏紙として再利用されています。裏紙に何かを走り書きしている僕はというと、計画のこともその先に達成されるはずの目的のこともすっかり忘れています。ひどいやつです。

僕は目的の扱いが下手くそで、目的に近づいていくための計画を立てるのも下手くそで、そして目的を達成するため計画に乗って自分を動かしていく「意志」が貧弱です。これらのことを働くことと重ねて考えた時、働くという場面において致命的な欠陥になり得るんじゃないかと僕は思います。

どうしてそう思うのかというと、基本的に「労働」は計画的目的と機械的意志を必要とする営みであると僕が考えているからです。あくまで推測ですが、もし僕が「私は目的を遂行する意志が弱い人間です」と採用面接で自己紹介したら、僕という人材を欲しがる企業はほとんどないと思います(僕が就活事情に疎いだけでそんなことないのかもしれませんが)

ここまで考えて思いました。

僕にとって働くことがしんどいのは、「目的」と「意志」を前提とする労働観に馴染めないからなんじゃないか。

べつに働くことをしんどくなくしたいわけではなく、しんどさと喜びのバランスを取りたい。

働くことはただしんどいと思いたいわけではなく、ただ楽しくやりがいあるものとも思いたくない。

働くことについて、そのしんどさとその喜びの接点を、ちゃんと自分の中に見つけておきたいんですよね。

じゃあその、「目的」と「意志」を前提とする労働観って、いったいなにを前提にしているんだろう。

次は、「責任」の話になりそうです。

Writer:RINGO BASE スタッフ あつし

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