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「疎外された状態は人に「何か違う」「人間はこのような状態にあるべきではない」という気持ちを起こさせる。ここまではよい。ところがここから人は、「なぜかと言えば、人間はそもそもはこうでなかったからだ」とか「人間は本来はこれこれであったはずだ」などと考え始める。
 つまり、「疎外」という語は、「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」「本来の姿」というものをイメージさせる。これらを、本来性とか〈本来的なもの〉と呼ぶことにしよう。「疎外」という言葉は人に、本来性や〈本来的なもの〉を思い起こさせる可能性がある。
〈本来的なもの〉は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが〈本来的なもの〉と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。」
 
國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補版』より。
僕には、意識的にあるいは無意識的に使わないようにしている言葉があります。「責任」という言葉もその中の一つです。
どうしてかというと、今でも僕はその言葉の意味が、「責任」という言葉で指し示されるものがいったいどんなものなのか、わからないからです。
 
でも困ったことに、生活しているといろんな場面でこの言葉に出くわします。
その時々で、この人が使っているから、こういうシチュエーションだから、こういう文脈だから、今使われた「責任」はこれこれを指しているんだなと、なんとなく感じ取れることもありますが、その言葉を支える背景が少しでもないと、僕は迷子になり、途端に興味を失います。
 
さらに困ったことに、往々にして「責任」という言葉に居合わせるのは、差し迫った状況において多い、ということです。
誰かが誰かを責め立てる。誰かが誰かをいさめる。誰かが誰かを、咎める。
そういう場面に当事者として、あるいは外野としてでも、居合わせてしまった時、僕は途方に暮れてしまいます。「責任」という言葉が出た後の場で、どういう言葉を続ければいいのか、わからなくなってしまうからです。
 
「責任」は「人格」と、その人のパーソナリティと、癒着関係にある。それが、その言葉に接した僕が戸惑ってしまう、一番の理由です。
「責任感に欠ける」と言われると、自分のすべてが否定されたように感じてしまう。幼い頃から「自分の言動に責任を持ちなさい」と言われてきた僕たちは、「責任」という言葉に過剰に反応してしまう。「責任は人として持ち合わせるべきものだ」という考えを、心の奥底に内面化させている僕たちは、たとえ人に言われなくても、「責任」という物差しを使って、自分で自分を叱り飛ばすことができる。
自分には責任があるのだから、もっとこうできたはず、もっとこうできるはず、もっとこうすべきだった、もっとこうすべきだ。
 
そうやって無能で無力な自分を断罪できる。
 
当然、その矛先は、他の人にも向かう可能性があります。
じゃあ一体、その可能性は、どこで一番、大きくなるのか。
 
職場だと、僕は考えます。
もっと言うと、「責任」と「人格」の癒着は、労働の場から始まったんじゃないか、というのが僕の個人的な見解です。
たしか、最初の小話で僕は「労働の場では、生産性と効率性の追求のため、終わりのない改善が積み重ねられる」と書きました。
その「改善」は、大きく二つの方向性があると思います。一つは、環境整備。新しい機械を導入するとか、事業規模に合わせて施設を拡張するとか、そういったこと。もう一つは、人事整備。その人の適性に合わせて職務を割り振る、適材適所ですね。あるいは新しい人を雇って、動力源を増員する。そういったこと。
でも、資金力に乏しく時間的余裕、人員的余力もないと、なかなか大きく「整備」を実施し、劇的に生産性と効率性を向上させることは難しい。
 
そこで「社員教育」の出番です。
一番手っ取り早い「改善」は、働き手を教育することです。最小のリソースで最大の成果を。それが資本主義のスローガンであり、そのゲームに勝ち続けるための鉄則。そう考えた時に、人間というリソースは、もっとも都合がいい。
 
だって、人間の可能性は無限大、ですから。
 
人間はなんでもできる。なんにだってなれる。まねっこが得意な生き物です。「模倣」をベースに、それをあらゆる対象に応用し、この厳しい世界を、生き抜いてきました。
 
すべての教育というものがそうであるように、「社員教育」も、人間の「模倣」という特性を十二分に活用して、行われます。
そしてその目的は、ある人間を、その会社に貢献し得る人材に、鍛え上げることです。錆びついた刀を打つように、あらゆるプログラムを通じてその人間の人格的歪みをオーダーメイドに鍛え直し、滑らかに整え、切れ味を上げる。
その「型」のひとつとして用いられてきたのが、「責任」という観念であり、今広く行き渡っているその言葉の使用方法のルーツなのではないか。
 
そして、もし、今の労働観というものが、そういう「責任」に、「目的」と「意志」が組み合わされ、できあがったものなのだとしたら、僕は、そういう労働観からは積極的に、距離を取りたいと、思っています。
冒頭の引用の助けを借りて、これまで僕が言及してきた「責任」という言葉の意味を、ここで少しはっきりさせるのであれば、それは、「〈本来的なもの〉」というイメージを背負わされた観念、です。それは意味じゃない、と言われたらそれまでですが、でも、僕は思うのですが、とっくの昔に、「責任」という言葉から「意味」というものは、失われてしまっているのではないでしょうか。
 
テレビに映るような人たちが、責任という言葉を、ただひたすらに、連呼している。テレビの前にいる僕たちは、ああ、またか、と思う。いかにもそれらしく、重々しい口調で、あの人は、責任、と口にするけど、それが「ポーズ」だってことを、僕たちはもう、嫌というほど、わかっている。聞き飽きている。
 
とっくに、意味なんてないんです。もう、すでに。
 
個人に帰されるものとしての「責任」は、もう賞味期限切れだと、僕は思います。
 
じゃあ、これから、責任たちはいったいどこに、帰ればいいのか。
 
責任が帰る家は、どこにあるのか。
 
僕は、関係という時空間に、あるんじゃないかと、思っています。
 
今のところ、ぼんやりとした直感でしかありませんが、そこから改めて、働く、ということを考え始めた時、今よりも少しずつ、働くことは、人に、やさしくなっていくのではないかと、思います。
 
でも、どうなんでしょう。
 
みなさんは、どう思いますか?
最後まで読んでいただきありがとうございました。
 
次回から切り口を変えて「お金」の話をば。

Writer:RINGO BASE スタッフ あつし

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