映画とワカラナイ

最近、立て続けにたくさんの映画を観た。家でDVDやブルーレイで観たり、映画館で大きなスクリーンで観たり、契約しているサブスクを利用して観たりもした。

家で見るときはたいていテーブルにはお酒がある。ちみちみ飲みながら観る映画は大変面白いし、お酒も美味しい。時折、黒白のハチワレ猫がテーブルに座り、熱心にテレビの画面を観たりしている。字幕が読みづらい時があるのだが、あまりにも一所懸命に観るので邪魔できないでいる。

10年くらい前までは、難しい映画を見た際に、「ワカラナイ=面白くない」と感じていたような気がする。でも最近は、「お、おもしれー映画。全然分からないや。どれどれ、考えてみるか(ニヤニヤ)。」となっている自分がいる。「ねえねえ、この作品のこのシーンて、こういうものを描写していたってことだと思う?」と、しばしば意味不明な質問を夫に投げかけるが、夫は呆れた顔ひとつせず、一緒に考えてくれる。優しい夫である。

「ワカラナイ=面白い」にたどり着くまでは、結構苦しかったように思える。「ワカラナイ=良くない」という結びつきが自分の中で成立していたためだ。分からないことが周りにたくさんあるのにも関わらず、特に仕事の場面ではそれらの解決を求められるし、説明、説得を求められる。うまく説明できないと不思議なリアクションをされたり、場合によっては「そんなだからダメなんだ。」と説教が始まったりする。長毛のフワフワ猫に「ねぇねぇ、これ、よく分からないんだよね。」と言うと、「ふーん。」という顔をされる。説教らしいことをされたことはない。たまに、フランス語の”R”の発音に似た音で「るるー。」と少し鳴き、相槌を打ってくれる。優しい猫である。

「ワカラナイ」を楽しみ、萎縮せず、自由気ままに思考を巡らすとどうなってゆくのだろう。木の根っこのように、ウネウネ広がってゆくのだろうか。その思考の根の上に、私が立っているということなのだろうか。「考える葦である」ってコト?なんだかよく分からなくなってきたので、夫とフワフワ猫にも聞いてみよう思う。

Writer:永井温子(株式会社Ridun代表取締役)

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