【Introduction】

「ナンニモシナイ」をめぐり、色々な人たちのもとを訪れて話を伺う、『失われたナンニモシナイを求めて。』というこの企画。1回目の旅の行き先として訪れたのは、青森県五所川原市にある「法永寺」というお寺です。こちらでご住職をお勤めになっている小山田和正さんのお話を、2時間ほど、じっくり伺いました。「ナンニモシナイ」という言葉から、小山田さんとともに僕たちは、いったいどんな場所にたどり着いたのでしょうか。社会の時間から遠く離れて。長い旅の記録を、お楽しみいただければ幸いです。

【目次】

第1話(2023/3/1)
第2話(2023/3/2)
第3話(2023/3/3)
第4話(2023/3/4)
第5話(2023/3/5)
第6話(2023/3/6)
第7話(2023/3/7)
第8話(2023/3/8)
第9話(2023/3/9)
第10話(2023/3/10)
第11話(2023/3/11)
第12話(2023/3/12)
第13話(2023/3/13)
第14話(2023/3/14)
第15話(2023/3/15)

【登場人物】

〈たずねた人たち〉
アツシ(高橋)
シャッチョ(永井)
ヨッシー(久米田)
リッチャン(佐々木)
ワーチャン(戸崎)

〈こたえてくれた人〉
オヤマダさん
(法永寺住職 小山田和正さん)

【第7話】

意味の訪れを待つこと。

オヤマダさん
おもしろいねぇ。いや今さ、「意味」ってことで言ったら、さ。ぜんぜんこれもまたあれなんだけど、あのー、今の法人で、戯曲の読み合わせをやってるのね。

アツシ
うんうんうん。

オヤマダさん
わぁさ、それ興味持ったのは、あの、他者理解っていうことで、よく言われるようになったっていうのがあって。んで、えっと、その中でこう。去年1年はね、わぁね、待つ、「待つってなんだろう」ブームだったのね。

アツシ
へぇぇー!

オヤマダさん
だからそれに関してもずーっと本とかも読んでいたし考えてもいたんだけど。あの、まぁ、ちょうどコロナで、ステイホームとかっていうさ、待つ期間みたい感じのことも、重なってきたんだとは思うんだけど。そんでその中で、その戯曲への興味と「待つ」ブームが重なって、『ゴドーを待ちながら』っていうべケットの戯曲の中でも有名、なんだべね、ベーシックな戯曲があって。

アツシ
はいはい。

オヤマダさん
意味わかんないのよ、何回読んだって。

アツシ
うんうんうん。

オヤマダさん
んであれは、一本の木があって、で、二人のたぶん浮浪者みたいな人たちが「ゴドー」っていう人物を待ってて、それが永遠と続いていくってだけで、ストーリーとかもなにもなくて。ただ今それを、ずーっと読み合わせていってるんだけど。

アツシ
へぇー。

オヤマダさん
ぜんぜん、まぁ当たり前に意味はわかんないんだよね。ただ単に言葉があるだけで、ぜんぜんつながっていないし、んで一部と二部があって、まぁ、一部も二部も、あんま変わんないっていうかさ、その、ノリがっていうかさ。

アツシ
うんうん。

オヤマダさん
んでさ。だけどさ、意味がない二人の会話がずーっと続いていくんだけど、彼らは、待ってるのよ、誰かを。

アツシ
うん。

オヤマダさん
んでその「待っている」っていうことによって、その時間が、成立してるし、んでもっと言えば「待っている」っていうことで、彼らはその場所に居ていい、っていうことになるのよね。たとえばほら、どっかの駅の前でさ、なんにもせずに待ってるってけっこう辛いと思うんだよね。だけど、私は「彼女を待ってます」って言ったら、同じことしてるんだけど、「居ること」ができるのよ。

アツシ
うーん、うんうん。


オヤマダさん

っていう感じもあって、そういうの考えるとすごくおもしろくて。んでなんか、去年見た映画でさ、ちょっと、あ、そうだ、『ちょっと思い出しただけ』っていうやつだ。その中でさ、永瀬正敏がさ、公園のベンチで、何年も何年も亡くなった奥さんを待ってるわけ。

アツシ
へぇぇぇー。

オヤマダさん
んで、主人公たちはいつもそこ同じ時間に通るんだけど、永瀬正敏はずっといるのね、「奥さんがまだ来ない」って言ってね。でもその奥さんってもう死んでて。なんかこう、見方によっては、気味の悪い話じゃん?

アツシ
あぁー。

オヤマダさん
でしょう?

アツシ
あー(笑)

オヤマダさん
でもさ、永瀬正敏は、奥さんを「待っている」ってことで、その場所に居続けることができるわけ。

アツシ
うーん。

オヤマダさん
けっこう示唆深くない?

アツシ
いやぁすっごいすね。どうやって思いつくんですかね…(笑)

オヤマダさん
そう、だからなんか、その永瀬正敏が演じる男性は、ほんとに社会ともなにも、つながりもなく、まぁ、言ってみればただのホームレスっていう。なにも彼はすることもないし、なにもつながりはないけども、でも、なんで生きてるかっていうと、だれかを待ってるから、なんじゃないかな、とかさ。なにかを待ってるからなんじゃないかなとかさ、だから生きていられてっていうかさ。それは「ナンニモシナイ」につながっていく感じが、話聞きながら、したんだけど。

アツシ
うーん。

オヤマダさん
なにもしなくたっていいよね、でも、そこに居続けるにはたぶん、その、わたしは、なにかを待ってるっていうかさ、「この時間を待ってるんです」、とかさ、人でもいいし時間でもいいし、「春になるのを待ってるんです」、とかさ。っていうのではじめて、居れるのかなぁーとか考えたりして。してたんだよね。

アツシ
うんうんうん。

オヤマダさん
んで待つものがなくなったらさ、たぶん、もう生きていけないっていうかさ。

アツシ
うーん。

オヤマダさん
居場所がないっていうかさ。

アツシ
あぁでも、ぜんぜん、そうですよね。居場所がない、っていうただそれだけじゃなくて、その背後に「待つものがないから」っていう、なんかこう、言葉がひとつ加わるだけで。

オヤマダさん
うん。

アツシ
ぜんぜん、質感が違う。違いますね。

オヤマダさん
そう、なんだよね。この、「意味」とかにさ、なんか、つながってくる話かどうかはわかんないけど。そう…。去年はそれずっと考えてて…。

アツシ
うーん…。

***

【幕間 その7】

「待つ」ことによって、人は、「居る」ことができるようになるんじゃないか。待つことをめぐるさまざまな思索や試みを重ね、小山田さんは、そう思うようになったと言います。だれかを、あるいはなにかを、待っているから、人は、そこに居れるし、生きていける。「待つ」ということは、人の「生」のすべてに先立つのかもしれない。
 生きる「意味」は求めるものではなく、その訪れを待つことによって、はじめて、指先でふれ得るものなんじゃないか。そういえば、書くことをしている時、僕は、言葉の訪れを、静かに待っているような気がします。そしてその感触は、「ナンニモシナイ」をしている時の心持ちと、近いところがあると思いました。

***

PAGE TOP