【Introduction】

「ナンニモシナイ」をめぐり、色々な人たちのもとを訪れて話を伺う、『失われたナンニモシナイを求めて。』というこの企画。1回目の旅の行き先として訪れたのは、青森県五所川原市にある「法永寺」というお寺です。こちらでご住職をお勤めになっている小山田和正さんのお話を、2時間ほど、じっくり伺いました。「ナンニモシナイ」という言葉から、小山田さんとともに僕たちは、いったいどんな場所にたどり着いたのでしょうか。社会の時間から遠く離れて。長い旅の記録を、お楽しみいただければ幸いです。

【登場人物】

〈たずねた人たち〉
アツシ(高橋)
シャッチョ(永井)
ヨッシー(久米田)
リッチャン(佐々木)
ワーチャン(戸崎)

〈こたえてくれた人〉
オヤマダさん
(法永寺住職 小山田和正さん)

【第11話】

焦り屋さん、こんにちは。

オヤマダさん
最後、最後っていうか、最後じゃなくてもいいけど(笑)

リッチャン
佐々木です(笑) あの、なんか…。わたし教育学部を出てるんですけど。

オヤマダさん
うんうん。

リッチャン
んで教育って聞くとたぶん、みなさん真っ先に自分の学校時代のこと思い浮かべると思うんですけど。

オヤマダさん
うん。

リッチャン
わたしは、なんだろう、学校っていう、教育機関、と呼ばれるもの自体には、なんて言うんですかね。ある種の社会にとって都合のいいような形、そういう枠を用意してそこ、学校を通して、まぁ、用意された社会に、つながっている、っていうかそういう風な装置としてもあると、学校という場について、思っていて。

オヤマダさん
はいはいはい。

リッチャン
それで自分は、あそこにある世界観っていうのに違和感を持っていて。だから逆にこう、学問的なこと、に興味を持って。あ、今大学院で、たぶん人文に寄ってるのかな、内容で言えば。たぶん、教育学部、学問としての教育と、人文的な領域と、なにがそれらを分かつのかって言われたらたぶん難しい、から、あんまりそこにはこだわってないんですけど。

オヤマダさん
うん。

リッチャン
で、それで、話題になっていた「待つ」ことに寄せて考えたのが、なんか本来、学校での成果の測り方はテストなので、あれは即時的な成果を求められるけど、教育において必要なことって、その、個々の人、人間が、なんて言うんですかね、自分の、自分なりの、生きていくための哲学みたいなものを、身につけたり捨てたりしながら、歩んでいくための、過程を、なんだろう…。

オヤマダさん
うん。

リッチャン
べつに教育について学んできたからといって、学問にふれているからといって、それをどうこうすることもできないし。なんかただそこでできることは、そこにいるその人たちがどう歩みを進めていくのかを、これを待つことしかできないし。本来教育に関わる人間の喜びとしては、その待つ過程に、あるんじゃないかなって個人的には思ってるんですけど。

オヤマダさん
うんうんうんうん。

リッチャン
なのでその「待つ」っていうのを考えた時に、でも今の学校でもたぶんそうだし。わたしの親、両親ともに教師なんですけど、小学校教師で。両親の話とか聞いたり、学部を出て教員になっていった友達の話とかも聞いて、あとは自分の生活してて抱く肌感としても、やっぱり今、「待つ」っていうことがすごい難しくなってるなぁっていう。

オヤマダさん
うんうん。

リッチャン
ファストな社会というか、そう言われて久しいと思うんですけど。とくに、われわれなんかもうファストな時代しか知らないから、そういう風にこう、学校とかいろんな、社会の場面でもそういう風に育てられて、きたし。なんだけど、今こうやって、まぁ普段でもこう、今してるみたいな話をちょくちょくしたりはしてるんですけど、そんな中であれこれ考えながら、なんだろう…。とくにこう、生産性があるとかないとか、そういう風な尺度を当てないで、ただ、話をふくらませたり、あっちこっちいったりしながら、あの…。その先で、まぁ成果を求めてないけど、なんか、その先でおもしろくなっていくんじゃないかなぁ、みたいな、期待をあわせ持ちながら、来るかもしれないし来ないかもしれない場面を待てる、幸せみたいなのがあるのかなぁって今思って。

オヤマダさん
あーそうそう!それもあるよねぇ。

リッチャン
だけど、だけどっていうかすでに、なんだろう…。待てるっていうことは、焦らせてくる存在というか要因が、その時点でというかその空間かもしれないけど、そこには存在してないから、待てると思うんですけど。わたしはすごい自分も、周りとかも見てて、なんか、焦ってんなぁっていう風に思うんですよ。焦ってんなぁって。

オヤマダさん
あー。


リッチャン

それで、なんだろうな、衝動的に、なんかこう、あ、こうしないといけないんじゃないか、みたいな、強迫観念みたいなものに駆り立てられて、決断を急いだりとか。

オヤマダさん
うんうん。

リッチャン
するけど、なんか…。なんて言うんですかね。焦らされない、んで、なにかを待てる、っていう状況って、すごいなんかありがたいことだし。

オヤマダさん
うん。

リッチャン
でも、その中で、ファストに育ってきてるんで、焦ってるんですよ。

オヤマダさん
(笑)

リッチャン
焦らされてなくても、焦りを感じている自分もたまにこう、にょきって顔出してくるんですよ(笑)

オヤマダさん
へえぇぇぇ。

リッチャン
にょきって顔を出してくるから、その自分の中にいる、焦り屋さんと、こう、「いい?」って。「ちょっと今いい?」って。あ、これ内面です、自分の内面です。

一同
(笑)

リッチャン
 「あの、出てきたいのはわかるけど、ちょっと、待ってもらえる?」って言って。そしたらソイツは「じゃあちょっと待つか」って。でも、コイツは、外の要因に影響されやすいので、誰かからなんか余計な一言とか言われると、こう自分に働きかけてくるんですよ。

オヤマダさん
あぁー。

リッチャン
んでわたしは「うっ!」ってなったり「うっせぇ!」って遠ざけたりするんですけど、それはタイミングによって(笑) だからなんか、コイツはずっと付きまとってくると思うんですよしばらく。

オヤマダさん
うん。

リッチャン
決別する時もあるかもしれないし、ないかもしれないけど、なんか、コイツを「まぁまぁ」ってなだめながら、なんだろう、待つことを覚えてる、覚えようとしている道中にいるのかなって思ったりとか。そんなことを、考えながら聞いてました。

オヤマダさん
へぇぇ…。うんうんなるほど…。そっか。待つことの愉しみってあるよねぇやっぱり。んだよねぇ…。友達がなんか若松英輔さんの言葉を送ってくれた時があって。なんか今、話聞きながらそれ思い出してたなぁ。なんて言ってたんだっけなぁ…。うーん…。若松英輔さんわかる?

リッチャン
わかまつ…。

オヤマダさん
えいすけ、英輔。

アツシ
キリスト教徒の。

オヤマダさん
そうだね、うん。

アツシ
文学者っていうところもあるっていうか。

オヤマダさん
詩とかも書くもんねぇ。

アツシ
うん、書きますよねぇ。

オヤマダさん
あ。そうこれは、若松英輔さんの講座を受けている人がいて、その時に「待つっていう話になったよー」っていう感じで送ってくれて。

アツシ
へぇー。

オヤマダさん
んで若松さんが言ったのは、えぇっと…。「待っているものが来ることではなく、待つ工程で自らに出会うことが(待つことの)本義である」って言ってたって。

一同
うーん…。

オヤマダさん
んで今、思い出したのは、その続きで、「例えば、来るはずのない人を何時間も待つ時、その時間そのものが何かと向き合うために必要なのであって、来なかったから意味がないとかそういうことではないのです」って言ってたんだって。わかる?(笑)

一同
うーん…(笑)

***

【幕間 その11】

   今回のインタビューに同席してくれたみんながそれぞれ、自分の中に漂っていた考えや思い、疑問を、ぽつりぽつりと口にしてくれました。
 リッチャンこと佐々木さんは、学業に勤しみながら、株式会社Ridunの活動に関わってくれている学生さんです。教育学を専攻していた経験から、「学校」という場と「待つ」ことの関わり合いについて話をしてくれました。
 焦り屋さん、懐かしいなぁ。僕の中にも最近までいました。いや今も、いるのか。登場頻度は減りましたが、のんびりしがちな僕のお尻を突いてくれる、今では貴重な存在です。彼とはずいぶん、膝を突き合わせて、話し合いをしたなぁ。
 次回からは再び、小山田さんの「待つ」についてのお話に、戻っていきます。

***

お話は、第12話「支え、支えられて。」に続きます。

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