【Introduction】

「ナンニモシナイ」をめぐり、色々な人たちのもとを訪れて話を伺う、『失われたナンニモシナイを求めて。』というこの企画。1回目の旅の行き先として訪れたのは、青森県五所川原市にある「法永寺」というお寺です。こちらでご住職をお勤めになっている小山田和正さんのお話を、2時間ほど、じっくり伺いました。「ナンニモシナイ」という言葉から、小山田さんとともに僕たちは、いったいどんな場所にたどり着いたのでしょうか。社会の時間から遠く離れて。長い旅の記録を、お楽しみいただければ幸いです。

【登場人物】

〈たずねた人たち〉
アツシ(高橋)
シャッチョ(永井)
ヨッシー(久米田)
リッチャン(佐々木)
ワーチャン(戸崎)

〈こたえてくれた人〉
オヤマダさん
(法永寺住職 小山田和正さん)

【第15話】

エピローグ:雪国が醸す文法。

オヤマダさん
だから昔は、そのどっちの責任でもないもの、中動態と、能動態しかなかったんだけど。それがだんだん、責任の発達。「あなたの責任、じゃないとダメです」っていう責任の概念の発達によって、中動態よりも受動態が大きくなっていくわけよ。

一同
へぇぇぇ。

オヤマダさん
だから、あなたがやった、わたしがやった、しか、あのもう、言葉がないわけ。今、現状。もちろんそのいろんな社会の中で、病院でも福祉施設でも、警察とか裁判所とかになってもさ、殺したのはあなたですよねっていう責任、これ「責任」じゃない?

アツシ
うんうんうんうん。

オヤマダさん
でも、実際殺した…。あぁ、わかりにくいかなぁ…。えーっと…。たとえば、自死。自死した方の遺族は、はっきりした原因を知りたいわけ。たとえば学校、とか、ね。それはでもすごくよくわかるんだよね。原因がはっきりしないと、納得いかないわけ。んで、それでね、それはすごいわかるんだよね。でも、実際に、その、自死してしまった人、本人の、こう、環境っていうのを見ていくと、すごい複合的なのね。だから、学校だけがこうだったで自死することってまずないと思うんだよね、たった一つの理由だけで。すごいそれは複合的であって。

アツシ
うーん。

オヤマダさん
必ず責任がさ、あの、誰の責任かみたいな。だからこれが殺人だってそうだよね。前の、九州の、事件とかさ、殺したのは、たしかに殺したのはあの人じゃない、どう見たって。だからあの人に責任があるんだけど、さてじゃあ、あの人の、環境っていうのはどうだったんだろうって考えると、たとえばその、周りの人の態度であるとか、複合的な原因によってああいうことが起こる、わけよね。だから、あの人の責任、たしかに刺したのはあの人なんだけど、でも実際その人、あの人だけの責任かって言ったら、けっこうそうでもなくて、いろんな複合的な要因によって、そうなった、っていうところもあって。そういう、視野を広げていくと「責任」の所在が、まっすぐな因果関係ではなく、複数に点在して複雑に絡み合っている、そういう状況を包み込むような言葉を、私たちはその言葉を持っていないわけ。

アツシ
んー…。

オヤマダさん
ところが、持ってるんだよね、津軽は。


一同

あぁー。

シャッチョ
「おささる」とか。

オヤマダさん
そう、「おささる」とかそういう。

リッチャン
だってなんか、疑われるもん。

シャッチョ
うんうん。

リッチャン
「おささる」とかその、わざとじゃなくて…。

オヤマダさん
そうそうそうそう。

リッチャン
わざとじゃなくて、みたいなことを説明をすると、なんか、「え!?」って。

オヤマダさん
そうなんだよねぇ。

リッチャン
 「自分で押したんじゃない?」って。いやまぁ動作としては押してたかもしれないけど(笑)

オヤマダさん
そうそう(笑)

リッチャン
そこに自分のこう…。

オヤマダさん
意志じゃない。

リッチャン
そう、「意志が介在してないっていう意味」って言ってもなんか、ピンとこないっていう、みたいな場面もある。

オヤマダさん
そう、だから、津軽地方と北海道、あとさっきの、ね、いわゆる北東北は残ってて。言葉が残ってるってことは、そういう考え方が残ってるってことだから。

一同
うんうん。

オヤマダさん
だからわんどはけっこうね、その今の、医療とか福祉とかに必要だとされている考え方について、わんどは最先端なわけよ。んでわぁそれを言ってるわけ、それを。あの、弘大に行って。なんかそれを話してるんだけど、みんなこっちの人じゃないんだよね、ほとんど。

アツシ
そうですねぇ。

オヤマダさん
ね。だから津軽弁自体が理解できないっていうか、その「これこれをささる」みたいな言葉遣いを、理解してもらえなくて。んでやっぱりさっきの、自死の話に戻ると、自死「した」、その人の意志によって自死「した」、だろうけど、実際は、やっぱ複合的で、これ津軽弁でいう自死「ささった」っていうのがすごいぴったりくるんだよねぇ。

アツシ
うんうんうんうん。

オヤマダさん
誰の責任でもなくてっていうのは、つまり、その複合的ですよって意味での「誰の責任でもない」っていうかさ。んでその人が意志をもってたしかにやったけど、それを、押したのは、もっと複合的だし、その責任とかの幅をどれくらい広げていくかっていうかさ。それはすごいあって。ちょー興味あるの、それに。

一同
へぇぇぇ…。

オヤマダさん
いやわぁが、なんかわぁが話してるばっかりになって申し訳ない(笑)

アツシ
いやいやいやいや(笑)

オヤマダさん
もう時間だもんねぇ。

アツシ
時間ですね…。

オヤマダさん
ありがとうございます。

アツシ
いやぁでも、すごいおもしろいお話を…。

ワーチャン
すいません、ちょっと今思い出したんですけど、 「おささる」って未然形接続だから「やってない」ってことですよね。

オヤマダさん
未然形接続って、あ、んだ、言語学やってるってしゃべってたもんね! 聞いたことあるこの話?

ワーチャン
いやなんか、中動態って話をぽそってどっかで聞いたことがあったので。でもちゃんとは覚えてなくて。「おささる」はでもよく、話とかも、してる人はいますね。

オヤマダさん
んだよねぇ。

ワーチャン
なんか「おさ」が、「押さない」の「ない」につながるからたぶん、未然形、なんですよ。

一同
へぇぇぇぇ。

リッチャン
そこに「意志」はないってこと?

ワーチャン
うん、だからたぶん、本人としては「してない」から、未然形。

オヤマダさん
うんうんうんうん。

リッチャン
本人は結果の話をしてるから、っていう感じ?

ワーチャン
そうそう。でも「さる」はたぶん「される」があるから。受動態じゃなくてたぶんそれこそ中動態なのかなって思って聞いてたんですけど。あと、北東北にあるって聞いて、これは勝手な予想してるだけなんですけど…。

オヤマダさん
うんうん。

ワーチャン
あの…。なにか見えないものが、こう、そうされるような、運命とも違うけど、糸を引いているものがあって、あの、たまたま事故が、事故的に、裏で社会的な何かに引っ張られてしまって、あの、その人がたまたま自死する人になってしまったって、そういう運命的なものがあると思って。

オヤマダさん
そうそう、そうね。

ワーチャン
なんか、そういうのを、アイヌ、とかが関係したりしないのかなぁって。

オヤマダさん
あぁーそうなんですねぇ。

ワーチャン
アイヌってなんか、神様の文化じゃないですか。あらゆるものには神が宿っていて、それでその神様たちがこう、自分たちの国に招くから、人が死ぬんだとか、そういう考え方がある。

オヤマダさん
うんうんうんうん。

ワーチャン
だからもしかしたら中動態って、サンスクリット語とかにもあるってことらしんですけど、神がいる世界の言語、の中に、中動態ってあるのかなぁって。

オヤマダさん
そうそう、まさしくそう。そこまで、今ちょっとね、宗教者なのであまり話はしなかったけど、まったくそうだと思う。だからなんかこう神みたいな存在を想像しないと、そういう中動態的な言葉って出て来てこなくて。これもだから人文の力ですよ、その、「ストーリー」をちゃんと設定するから、「ささる」っていう言葉が、出てくるので。

アツシ
ある「ストーリー」があることで、ある「言葉」が、成り立つんですね。

オヤマダさん
そう、だからこれはたぶん、なんか、津軽にいる人たちが、これを、どんどんどんどん出していかないと、出していけば、きっと救われる人がいるんですよね。ってわぁは信じてて。

アツシ
あぁー。

オヤマダさん
じゃないと、他の地域ではそういう言葉がないから。だから他の地域の人たちはおそらく「あなたのせい、わたしのせい」でやり通しているわけですよ。

アツシ
すごいですよね逆に、そんな体力どこにあるんだろうっていうか(笑)

オヤマダさん
んなんで「どっちでもないですよね」って言葉は、津軽には、あるから。そんな感じですねぇ。ちょっと、しゃべり過ぎましたね、すいません。

アツシ
いやぁなんも、ぜんぜん、ありがとうございます。

オヤマダさん
これ、ぶ、文章になるんですか?(笑)

アツシ
あ、文章にし、なり、なりま…。ちゃんとぼくが責任をもって文章にします(笑)

一同
(笑)


***

【少しだけ長い幕間】

 今、僕たちが生きている社会は「責任」で成り立っている。僕もそう思います。それぞれが、それぞれの「責任」を、全うしている、全うしようとしているからこそ、僕たちは、生存していられる。日本において、多くの人たちは、高い確率で、一日を終え、そしてまた一日を、始めることができる。
 でも「責任」は「善」ではない。重すぎる「責任」は、いつか、それを背負う人の背骨を真っ二つに折り、粉々に砕いてしまうかもしれない。軽薄な「責任感」は、いつか、無関係だった人々を巻き込み、その身や心に、必然性のない傷を、深く、刻みつけるかも、しれない。
 僕たちは、「責任」という言葉に、概念に、疲れ切っているのかもしれない。
 でも、その疲れを、癒すかもしれない可能性の種は、雪国に生きる僕たちの足元で、静かに、眠っていました。
 とても長い年月をかけ、雪深い土地に生きる人々が、伝え育んできた、文法。
 僕たちは、因果という時空間を克服する、古くて新しい言葉を、ストーリーを、必要としているのかもしれません。

***

【End roll】

 あっと言う間の2時間でした。用意していただいたお菓子を食べることも忘れて、僕たちは、小山田さんの話に聞き入り、自分の中でも、言葉にならない言葉を求めて、思い、感じ、考えていました。

 インタビュー終了後の「あ、お菓子どうぞ」という小山田さんの気遣いの言葉が、なぜかとても、印象に残っています。たくさん印象的な言葉を頂いたのに、どういうわけか、その所作が、僕の脳裏に深く、刻まれています。

 そっと、背中を押していただいたような、そんな、時間でした。僕は、僕たちは、ひとまずは、このまま歩みを進めていけばいいんだ。なにかおもしろくないことが起きることだってあるだろう。でもそれは、その時に、考えればいい。だからとりあえず、この足を、前へ。少しずつ、少しずつ。

「ナンニモシナイ」について、僕たちはなにか、わかったでしょうか。つかめたでしょうか。いやぜんぜん。むしろまた、わからなくなりました。

 でもヒントは、たくさん頂いた。


 社会の時間から遠く離れたところにあるもの。
 凝り固まった「意味」の解きほぐしを誘うもの。
 待つこと。
 日が落ちるのを待つこと。
 日が落ちるのを待ってもいい時間軸を許すこと。
 ためらいとの対話。
 焦りとの対話。
 消え入りそうなものに耳を澄ますこと。
 発酵する関係。
 中動態。
 だれの責任でも、ない、こと。
 責任が、霧散する、ところ。

 小山田さんに見送られながら、僕たちはお寺を後にしました。
 さぁ、次は、どこへ行こうか。

 失われたナンニモシナイを求めて。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。
次は、春から夏に、季節が移り変わる頃に、会いましょう。

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